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わたくし的備忘録。

「じんせいは、小学校で学んだことの復習だよ。」小学校の閉校に伴う30段新聞広告にみる日本語の豊かさ

福岡に本社を置く広告代理店 株式会社西広が小学校の閉校に伴い卒業生や地域の企業などから協賛を募り、閉校を知らせる新聞広告を掲載しました。

大名小学校0314入稿_2

中央に「じんせいは、小学校で学んだことの復習だよ。」というコピーがあるのですが、見ての通り「じんせい」って単語が何故か平仮名なんですよね。コピーライターさんの意図は知らないですけどここに日本語の豊かさが現れているような気がします。日本語は平仮名やカタカナ、漢字など様々な手段で表現することが可能です。それぞれに良さがありますが、漢字の良さの一つは視認性ではないかと思っています。読まなくても見た目で理解できるということです。
 
例えば…

→ きしゃのきしゃがきしゃできしゃした

→ 貴社の記者が汽車で帰社した
 
上記の二つを見比べてみてると、ひらがなで書いた方ははわざわざ読まなくては理解できませんが(読んでも理解できないかも…)、漢字で書くと読むというより見て“とらえる”という表現の方が近いように感じます。これは漢字は、ひらがなに比べ、情報量が多いことに起因しているのではないかと思います。漢字に比べひらがなは、情報量は少ない分、別の良さがあります。
 
例えば…

→ 春らんまん

→ 春爛漫
 
平仮名には情報量が少ない分、読者に想像する余裕を与えてくれます。情報量が少ないということは別の何かで情報を補う必要があると考え、想像してしまうのではないでょうか。逆に情報量が多い漢字を見るとわかった気になってしまい、読み流されるということがあるのかもしれないと考えています。

そういった日本語の豊かさや良さを活かして作られたコピーが「じんせいは、小学校で学んだことの復習だよ。」なんじゃないかと。じんせいを漢字にしてしまうと読み流されてしまい、どっかで聞いたことありそうなコピーだな、程度にしか思ってなかったかもしれません。人生という使い古された(単語なんで使い古されたってのは表現としておかしい気がするけど「人生は○○だ!」みたいなよく聞くコピーという意味で)言葉を平仮名にすることで、情報量が少ない分、想像する余裕がうまれ、人生というものを想像させる素晴らしいコピーになっているのだと思います。

で、実はこの手の広告が個人的にすんごい好きなんです。僕が好きだって思うのは写真やコピーの良さっていうより制作者(クライアントではなく代理店側)が愛情もって作ってるなって思える時なんですが、この広告からはそれがめちゃくちゃ伝わって来るんです。リード文の最後にある「ところで誰か、校歌の3番覚えてる?」という一文。こういうのって愛情持って作ってないとなかなか出てこないよな、と。実際はどうか知らないですねども。。僕もこんな仕事ができるようにがムばるゾ。