タレーラン
フランス5の政治家・外交官(1754-1838)。アンシャン・レジーム下の司教として世に出て、フランス革命、総裁政府、ナポレオンの帝政、ブルボン復古王政、七月王政と、体制が5回入れ替わるあいだ一貫して権力の中枢に居続けた人物。そのたびに前の主君を見限ったため「裏切り者」の代名詞として語られる一方、ウィーン会議で敗戦国フランスを列強の一員として復帰させた手腕から、ヨーロッパ5外交史上もっとも有能な外交官の一人にも数えられる。
聖職者から革命期の政治家へ
名門貴族の家に生まれたが、幼時の事故で片足が不自由になったこともあり、家督を継ぐ道ではなく聖職者の道に進まされた。1779年に司祭、1789年1月にオータン司教となる。
同年の三部会には聖職者身分の代表として選出されるが、革命が始まると教会の側には立たず、教会財産の国有化を提案するなど革命派として動いた。以後聖職から離れ、1802年に正式な還俗が認められている。恐怖政治の時期はイギリス・アメリカに逃れ、総裁政府期に帰国して1797年に外務大臣となった。
ナポレオンとの関係
統領政府から帝政にかけてナポレオンの外務大臣を務め、対外交渉の実務を担った。ただし両者の関係は良好なままでは終わらず、ナポレオンの拡張政策が破滅的だと見たタレーランは1807年に外相を辞任し、以後は水面下でオーストリア2やロシアと接触するようになる。主君に仕えながらその失脚に備えて動いていたわけで、後年「裏切り者」の評が定着する直接の原因となった。
1814年4月、ナポレオンが退位に追い込まれると、タレーランは臨時政府の首班としてブルボン家の復帰を主導し、ルイ18世のもとで再び外務大臣の座に就いた。
ウィーン会議と正統主義
1814年から1815年のウィーン会議に、タレーランは敗戦国フランスの全権として臨んだ。ここで彼が掲げたのが「正統主義(légitimité)」、すなわちフランス革命以前の正統な王朝と秩序をヨーロッパ再建の原則とすべきだという主張である。
この原則を立てることで、フランスは「ナポレオンという簒奪者に占領されていた国」であり、復位したブルボン朝のフランスは戦勝国と同じ正統な体制である、という論理が成り立つ。同時にタレーランは、ポーランド・ザクセン問題をめぐって対立していた戦勝国側の分断を図り、イギリス・オーストリアと組むことに成功した。結果としてフランスは領土をほぼ革命前の状態で保ち、会議の主要な当事者の一角に戻った。敗者の立場から交渉によって地位を回復させた事例として、外交史でくり返し参照される。
評価と逸話
七月革命後の1830年から1834年まで駐英大使を務め、1838年5月17日にパリで死去した。死の直前にカトリック教会と和解している。
彼の評価は今も割れている。節操なく主君を乗り換えた背信者と見るか、体制ではなくフランスという国家そのものに仕え続けた現実主義者と見るかで、まったく違う人物像になる。警句の名手としても知られ、なかでも「良いコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い」という一節は彼の言葉として広く引用されている。
要確認
- 生年月日(1754年2月2日とする記述が多いが未確認)
- 1791年に教皇から破門されたとする説の詳細(1802年に還俗が認められたことは確認できたが、破門の経緯までは確認できていない)
- ナポレオンがタレーランを「絹の靴下に入った糞」と罵倒したとされる有名な逸話の出典
- コーヒーの警句は日本語圏でタレーランの言葉として定着しているが、一次資料での出典を確認できなかった
参照
- Charles Maurice de Talleyrand-Périgord - Wikipedia (English)
- Charles-Maurice de Talleyrand, prince de Bénévent | Britannica
- タレーラン(たれーらん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
- タレーラン | 世界史の窓
- Charles Maurice De Talleyrand | Encyclopedia.com
- Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord | EBSCO Research Starters
- 【コーヒーの基本(特別編)】コーヒーを愛した著名人の名言は? | UCC