ウルブリヒト
東ドイツ(ドイツ民主共和国)の政治家(1893-1973)。ドイツ社会主義統一党(SED)の書記長・第一書記として1950年から1971年まで国家の実権を握り、1949年の建国から20年あまりにわたって東ドイツを事実上一人で率いた人物。農業集団化と国有化の強行、1953年の東ベルリン3暴動の武力鎮圧、そして1961年のベルリンの壁建設を主導した。日本語で単に「ウルブリヒト」と言えば通常この人物を指す。
経歴
1893年6月30日、ライプツィヒの貧しい労働者家庭に生まれ、家具職人としての修業を積んだ。1912年にドイツ社会民主党(SPD)に入党し、第一次世界大戦後の1919年にドイツ共産党(KPD)へ移って党内で頭角を現す。1928年からは国会議員を務めたが、1933年のナチス政権成立により亡命を余儀なくされ、パリなどを経てモスクワ2に落ち着いた。ここでソ連指導部との結びつきを深めたことが、戦後の彼の立場を決定づけた。
1945年、ドイツ敗戦の直前にモスクワから送り込まれた亡命共産主義者の一団「ウルブリヒト・グループ」を率いてベルリンに入り、ソ連占領地区の行政機構の再建に着手する。1946年にはソ連占領地区でSPDとKPDが合同してSEDが結成された。1949年10月にドイツ民主共和国が成立すると副首相となり、1950年にSED中央委員会書記長(1953年以降は第一書記に改称※1)に就任して党の最高指導者となった。1960年9月、初代大統領ヴィルヘルム・ピークの死去に伴って大統領職が廃止され、代わりに設けられた国家評議会議長(国家元首)にも就任し、党と国家の頂点を兼ねた。
ベルリンの壁
1950年代を通じて、東ドイツからは西ドイツ・西ベルリンへの人口流出が続いた。壁の建設までに西へ渡った市民は約300万人、人口のおよそ6分の1に達したとされ、しかもその多くが若年層や技能労働者だったため、深刻な労働力不足と体制の正統性への打撃をもたらした。
1961年6月15日の国際記者会見で、西ベルリンの「自由都市」化をめぐりブランデンブルク門に国境が引かれるのかと問われたウルブリヒトは、「誰も壁を築くつもりはない(Niemand hat die Absicht, eine Mauer zu errichten)」と答えた。それから2か月足らずの同年8月13日未明、東ベルリンと西ベルリンを隔てる遮断線の構築が開始される。この発言は、冷戦期を象徴する言葉として今も繰り返し引用されている。
経済改革・対西ドイツ外交と失脚
1953年3月のスターリン死後、労働ノルマの引き上げに対する抗議から6月17日に東ベルリンで大規模な蜂起が発生すると、ウルブリヒトは駐留ソ連軍の力を借りてこれを鎮圧した。この経験は彼の統治スタイルを決定づけ、以後も体制内の反対派を排除しながら権力を固めていく。
1963年には「新経済システム(NÖS/NÖSPL)」と呼ばれる経済改革を打ち出し、中央計画に企業の採算性や利潤といった指標を部分的に導入して効率を高めようとした。外交面では、1967年のワルシャワ条約機構外相会議を機に、西ドイツが東ドイツの主権を承認しない限り社会主義諸国は西ドイツと国交を結ばない、という方針(西側で「ウルブリヒト・ドクトリン」と呼ばれる)を打ち出し※2、西ドイツのハルシュタイン原則に正面から対抗した。
しかし経済改革は期待した成果を上げられず、西ドイツのブラント政権が進める東方外交への強硬な姿勢もソ連の緊張緩和路線とは噛み合わなくなっていった。1971年5月、ウルブリヒトは「健康上の理由」で第一書記を退き、エーリッヒ・ホーネッカーが後任に就いた。実質的にはソ連の了解のもとでの更迭だったとされる※3。退任後も国家評議会議長の地位と、彼のためだけに設けられた「SED議長」という名誉職に留まり、1973年8月1日、80歳で死去。国葬で送られた。
要確認
- 「ウルブリヒト・グループ」がベルリンに到着した正確な日付(1945年4月30日とする記述が多いが未確認)
- 「民主的に見えなければならないが、すべては我々が握っていなければならない」という有名な発言の出典と正確な文脈(同グループの一員だったヴォルフガング・レオンハルトの回想に基づくとされる)
参照
- ヴァルター・ウルブリヒト - Wikipedia
- ウルブリヒト(うるぶりひと)とは? 意味や使い方 - コトバンク
- Walter Ulbricht | East German Politician & Communist Leader | Britannica
- Walter Ulbricht - Wikipedia (English)
- Walter Ulbrichts Rede zur Berlin-Frage (15. Juni 1961) | German History in Documents and Images
- Dokument: Walter Ulbrichts Pressekonferenz vom 15. Juni 1961 | Chronik der Mauer
- Ankunft der „Gruppe Ulbricht" und Gründungsaufruf der KPD | bpb.de
- New Economic System - Wikipedia
- Ulbricht Doctrine - Wikipedia
- Poland, the GDR, and the "Ulbricht Doctrine" | Cambridge University Press
- ハルシュタイン原則 - Wikipedia
- 東ベルリン暴動 - Wikipedia
- DDR 1971 – von Ulbricht zu Honecker | Lernhelfer