イェール大学バイネッケ稀覯本図書館所蔵 MS408
イェール大学バイネッケ稀覯本図書館が所蔵する写本の請求記号で※1、一般には「ヴォイニッチ手稿」の名で知られる。羊皮紙に、どの既知の文字体系にも対応しない文字がびっしりと書き込まれ、植物・天体・人体の図版が添えられている。1912年に古書商ウィルフリッド・ヴォイニッチが入手して世に出て以来、職業的な暗号解読者からアマチュアまで多数が取り組んだが、文字が何語を表しているのか、そもそも意味のある言語なのかすら決着していない。所蔵機関が内容に踏み込まず「MS 408」という番号でのみ呼ぶのは、この未決着の状態をそのまま反映した扱いである。
体裁と中身
全体は羊皮紙で、現存するのはおよそ240ページ、書き込まれた文字は17万字を超えるとされる※2。筆跡は流れるようで、書き手がためらった痕跡や大きな書き直しがほとんど見られない。図版は内容によっていくつかの区画に分かれており、植物の図が続く部分、円と星を組み合わせた天文図のような部分、水の中にいる裸の人物が多数描かれる部分、小さな容器が並ぶ薬学書のような部分などがある。
植物図の多くは、既知の種に同定できない。実在する植物を写したものとも、複数の植物を組み合わせた架空の図とも読める描き方で、ここも解釈が割れるところである。図版と本文の対応関係も明らかではなく、図の脇に書かれた語がその図の名前なのかどうかを確かめる手がかりがない。
年代と来歴
羊皮紙の放射性炭素年代測定では、1404年から1438年のあいだという結果が出ている※3。これは羊皮紙の原料となった動物が屠られた時期を示すもので、文字が書き込まれた時期と同じとは限らない。古い羊皮紙を後世に入手して書いた偽作の可能性は、この測定だけでは排除できない。ただし、インクの化学的な経年変化や人為的な劣化の痕跡が見られないという指摘もあり、後世の作成説を支持する積極的な証拠は出ていない。バイネッケ図書館の解説は、15世紀末から16世紀の中央ヨーロッパ5で作られたものとしている。
近代以降の来歴は、1912年にヴォイニッチがイタリアで入手したところから始まる※4。それ以前の所有者については、手稿に添えられた書簡や記載から17世紀の人物にまで遡る線が議論されているが、入手経路の全体が連続して追えているわけではない。
解読の試みとその失敗
暗号としての解読、既知言語の変形としての解読、人工言語としての解読など、方向を変えた試みが繰り返されてきた。どれも部分的な説明にとどまり、他の箇所に当てはめると破綻する。2019年にはジェラード・チェシャーが、本文は失われた原ロマンス語で書かれており、アラゴン王妃マリア・デ・カスティーリャのために修道女が編んだ医療の手引きだとする論文を発表した。ブリストル大学が広報したが、研究の妥当性に懸念が示されたとして同大学は記事を取り下げ、中世写本の研究者からは厳しい批判が出た。
批判の焦点は方法にある。図のそばにある語を見て、その図から意味を推測し、推測した意味に合うように読みを決める、という手順は循環しており、どんな記号列からでも都市伝説的な「翻訳」を生産できてしまう。この失敗の型は、過去の解読主張にも共通して見られるものである。
「MS 408」という呼び方
「ヴォイニッチ手稿」という通称は、20世紀初頭にこれを売り出した古書商の名に由来する。つまり、作者も成立事情も内容も分からないまま、近代の所有者の名が書物の名前になっている状態である。図書館が請求記号で呼ぶ流儀には、その通称が運んでしまう含みを避ける意味合いもある。
研究上も、この区別は実務的に効いてくる。「ヴォイニッチ手稿を解読した」という主張は内容についての主張だが、「Beinecke MS 408 を調べた」のは物としての写本についての作業である。羊皮紙の年代、綴じ方、インクの成分、図版の顔料といった物質的な記述は後者の側で積み上がっており、そこに意味の解明がまだ接続していない。
要確認
- 「バイネッケ」という日本語表記が最も多いかどうかの定量的な確認。日本語の文献・報道で「バイネッケ」の用例は見つかるが、「バイネッキ」「バイネキ」との使用頻度の比較や、国立国会図書館の典拠形は確認できていない
- 放射性炭素年代測定の原論文。アリゾナ大学のチームによる測定という記述は複数の資料で一致するが、測定結果を報告した学術論文そのものは参照できていない
- 「約240ページ」「17万字超」という数字の典拠。二次資料では一致して挙げられているが、所蔵機関の目録記述での数値は確認できていない
- 17世紀以前の所有者をめぐる議論の現在の評価。手稿に関連する書簡から遡る説があるが、どこまでが定説として扱われているかは確認できていない
参照
- Beinecke MS 408 (Cipher Manuscript) | Beinecke Rare Book and Manuscript Library, Yale University
- History and Architecture | Beinecke Rare Book and Manuscript Library
- The Voynich Manuscript — Beinecke Library talk, 12 July 2021 | Medievalists.net
- Voynich Manuscript, Beinecke Library's mystery book, redux | Daily Nutmeg
- ヴォイニッチ手稿の作成年代が放射性炭素年代測定で特定 | GIGAZINE
- University backtracks over Voynich manuscript translation claims | Shropshire Star
- No, il manoscritto Voynich non è stato decifrato | Il Post
- ボイニッチ手稿 | Weblio辞書